僕たちは日常のことを当たり前と呼ぶよね。
当たり前って、辞書には
当然であること
言うまでもないこと
って書いてある。
でもさ、常識が人によって違うように
当たり前も人によって違うんすよね。
だから【日常】をどう捉えるかは人によって違う。
日常を
退屈、単調、つまらない人生
と意味づけしている人もいる。
当たり前に繰り返す日々
当たり前に単調な日々
当たり前に代わり映えがない日々
僕の親友は、
ミサイルで地元が瓦礫になった。
僕にとっての、第二の地元でもあるから
僕も悲しかった。
ジトーミルという、ウクライナの郊外の町。
僕も東京の郊外育ちだから、
数カ月過ごしただけで、第二の地元みたいに思った。
311の大震災の後、
僕の肩に手をおいて
「日本人?君は元気そうだね、よかった」
と言ってくれた先生が働いていた学校も、今は瓦礫の山になっている。
当たり前の日々は、まだ戻ってないし
これから戻るかは分からない。
当たり前の日常を
奇跡
幸せ
愛
として捉える人もいる。
当たり前に、奇跡
当たり前に、幸せ
当たり前に、愛
同じ日常、当たり前でも
世界線が違うよね。
3次元的には同じ場所にいても存在次元が違うよね。
そして、
当たり前に退屈な日々を送っている人は
当たり前に奇跡な日々を送っている人に
「そんなふうに思えるなんて、うらやましい」
と言う。
日常が退屈で、つまらない人は
自分の人生をどこか他人のように扱って
うまくいかない理由を外に探しているだけなんだよね。
奇跡や愛を外に探しても
一時的に見つけた気になっても
またそれが日常になった時から
また同じ【つまらんフィルター】を通して日常を見るようになる。
だから、ただの代わり映えのない単調な日々に逆戻りになる。
ハワイに移住したって
1年後にはつまらない日々になる。
それはそういうフィルターを持っているからなんだよね。
だから、奇跡や愛はすでに、今ここの日常の中にある前提で生きよう。
つまらんフィルターじゃなくて
奇跡フィルター、愛フィルターを使おう。
朝日が美しい
ごはんが美味しく炊けた
愛のある関係がある
雨の音が心地いい
月が大きい
奇跡はすべて、今すでにここにある。
気づくだけでいい。
そうやって奇跡や愛が当たり前になると
自然と感謝がわきあがる。
「感謝しなきゃ」なんて義務にしなくても
自然と心の奥から「有り難いなあ」というバイブレーション(波動)がやってくる。






