「残してもいいよ」
僕が子どもに言っていることです。
うちの子(発達グレー)は
気分が乗っている時はよく食べる
乗っていない時(食べたくない時)は食べない
すごくハッキリしている。
僕らの世代って
「残さず食べなさい!」と言われた育ってきた。
家では
「アフリカでは食べられない子もいる!」
と遠い国のことを引き合いに出され
学校では
「全部食べるまで居残りです!」
と罪人のような扱いを受けてきたよね。
そうやって、
食べ物を残すことに罪悪感を刷り込まれるから
食べることが義務みたいになる。
だから「食べたいから食べる」という
自分のナチュラルな感覚じゃなくて
「12時だから食べなきゃ」と
食事がただの義務的行動になってしまう。
だから、自分軸の中心にある
自分の本音から離れてしまう。
心の声が聞こえなくなってしまう。
僕は子どもには、無理に食べさせません。
放っておけば
食べたければ食べるし
食べたくなければ食べません。
今は食べなくても
腹が減ったら食べます。
それが生き物として、健全な姿です。
なぜ僕らは
犬や猫みたいなペットには
好きな時に食べていいよ、というのに
人間には不自然に、無理に食べさせようとするのか
それは食べさせる側のエゴであり、都合です。
「子どもた食べない」
というのが悩みのママもいますが
ママの仕事は
食事を出すところまで
その後はもう相手の仕事なんだから、放っておいてもいい。
そこまで責任を引き受けなくてもいい。
僕たちは
自分の体の感覚がわかれば
必要な分量がわかるようにできています。
それなのに
食べ過ぎたり
逆に、拒食になったりする。
不自然な環境の中で
現代人は、食べることすら苦手になっている。
僕が若い頃に付き合っていた女性は
すごくきれいだったんだけど
体からは肉がごっそり削げ落ちていた。
何度も倒れて点滴を打っていた。
でもLINEの名前には豚のアイコンがついていた。
自分を太っていると思っていた。
「今度おいしいもの食べに行こうよ」と提案すると
「ごめんね、食べるのが苦手なんだ」と言っていた。
食べ過ぎる人
食べれない人
そして、
日本の小学校では
トイレでうんちをすると
馬鹿にされてしまう。
だから、排泄も我慢するようになる。
その結果
生き物として最も大事な
食べて、排泄すること。
これが苦手になる。
だから便秘の人が多い。
便秘の人は、無意識レベルで排泄に罪悪感を持っていることが多いんだよね。
食べて排泄するという
大自然の最も基本的な循環ができなくなると、生物としては終わります。
高齢者も、食べることができなくなったら、もうそれは生物としての自然な寿命。
それなのに、今の社会では
胃ろうといって、
食べれなくなった(つまり自然な寿命状態)の老人の胃に
無理やりお腹に穴をあけて、栄養剤を流し込む。
これが良いこととか、悪いこととかジャッジはしない。
でも、不自然であることに変わりはない。
僕がいいたいのは
無理やり子どもに食べさせて
思春期くらいからは拒食や過食になり
排泄に罪悪感を覚え
寿命になって食べれなくなっても、穴を開けてチューブで直接、胃に栄養剤を流し込む。
この構造は不自然だってこと。
僕自身
「全部食べないと」と
無理に食べてしまうと
必ず体が重くなり、頭もにぶくなることがわかる。
それは
「もうこれくらいが適度やで」
という体のメッセージを無視して
「全部食べないとダメ」
というエゴの思考で食べるからなんだよね。
自分は何を食べたいんだろう
どのくらい食べたいんだろう
というメッセージは常に体が発している。
そのメッセージを大切に感じて
残しても残さなくてもいい
そんな感覚を大切にすることが
必要なんじゃないかと思うんです。
そして、便秘を解消したいなら
体の循環に感謝をすること
体が排泄をしてくれることを、有り難く思うことです。
僕の気功の先生はこう言っていました。
「食事と排泄ができれば、人間としては100点」と。